尾川昌法「建国祭の成立―日本主義と民衆・ノート―」『立命館文学』第五〇九号
1はじめに
「大正デモクラシー」から一五年戦争とファシズムの思想である「日本主義」へ、天皇制国家は民衆意識をどのようにして領有したのか、これが私の持っている問題意識であり、そのための一作業に建国祭の成立について調べてみるのが本稿の課題である。
一九三〇年代のなかば、戸坂潤は『日本イデオロギー論』で、日本主義は「著しく非常識な特色を有っている」にもかかわらず、「日本主義思潮が、今日日本のあまり教養のない大衆の或る層を動かしているという現実を、どうすることも出来ない①」、と日本主義の支配的状況を認めて、その日本主義が「自分自身は何と云おうと、日本ファシズムの哲学」であったと書いている。
「壮年期をこの時代にすごした」哲学者としての痛恨をこめて、古在由重も、「一九三〇年前後から敗戦にいたるまでの『日本精神』は戦意高揚のための旗じるしだった。そのための皇道主義、日本主義だった②」、と日本主義が社会的に機能した事実を認めている。そうだとすると、大正デモクラシーからこの日本主義への民衆意識の推移は、意義のある一つの研究対象にちがいない。
近代天皇制イデオロギーの原典である教育勅語の価値観は、すでに指摘されているように、大正デモクラシー期に社会的機能としては動揺していた。大正デモクラシー期の二月一一日をたどってみても、それはたやすく理解できる。ことに第一次大戦前後の頃から、この紀元節の日は「政治的な権利の伸長をめざす民衆運動の日③」となっていたのであった。
たとえば憲法発布三〇周年に当る一九一九年のこの日には、東京で普選要求のデモ行進、演説会が行なわれ、高知では、政友会原敬内閣下の政友会高知支部が幸徳秋水の遺族に感謝状を送っていた。秋水は憲政建設の功労者で、「深く君が生前に於る偉績を追悼し、欽仰景慕の情更に禁ぜんとして禁ずる能はざるものあり④」、というのであった。
建国祭は大正デモクラシー末期の一九二六年に創始され一五年戦争の終末まで続いた。この「祭り」の創始は、大正デモクラシーへの挑戦であり、この日を「わが労働者が常に大衆的示威運動を敢行してきた光輝ある日⑤」、と自覚していた左翼労働運動への対決であるようにみえる。以下に成立の事情を検討する。
(以下は、PDFファイルをご参照ください)
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著者 尾川 昌法(おがわ まさのり)
社団法人部落問題研究所理事長、大阪民衆史研究会会長、元立命館大学非常勤講師
※2020年時点での経歴
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