(論考)「建国記念の日」不承認運動40年と憲法九条 尾川昌法

「建国記念の日」不承認運動40年と憲法九条 
尾川 昌法


持続した40年

  「建国記念の日」 不承認の第1回大阪府民集会は、 ちょうど40年前の1967年、 農林会館に800人が参加して開催された。 今年は41回目である。 この第1回は大阪だけでなく京都や東京等各地で開かれたし、 学生の同盟登校も行われて 「祝日」 制定に抗議したのであった。

 祝日法改定は前年6月の国会で、 「体育の日」、 「敬老の日」 とともに強引に可決されたが 「建国記念の日」 だけは何日か決定できず、 国会終了後に公聴会、 審議会開催でごまかし12月、 政令で公布したのだった。

 1967年の最初の祝典に、 佐藤栄作首相は休養を理由に欠席してしまったほどに、 それは世論無視の強引な制定であった。 歴史学会、 歴史教育者協議会、 教職員組合を中心とする反対運動は、 明治維新を賛美する 「明治百年祭」 反対運動ともつながって、 はやくから展開していた。

 反対する主な理由は3点にまとめられる。

 ①神武天皇即位という歴史的実証的根拠を全くもたない非科学的な 「建国」 で、 国民の歴史意識を混乱させること、 ②軍国主義復活に結びつける意図が明瞭であること。 佐藤首相も愛国心や民族共同体意識の高揚の手立てと認めていた。 ③そしてなによりも主権在民の憲法の精神に反していること、 であった。

 今でもこれらは、 私たちがこの日を承認できない理由であるばかりか、 愛国心教育中心への教育改革と憲法改悪へ法制の整備がすすんでいる今こそ、 いっそう重要な意義をもっているであろう。 今もなお保守的政治家たちが愛国心教育で躍起になっているのは、 彼らが 「建国記念の日」 制定で夢見た 「日の丸行進」 ができるほどの愛国心も実現していないからなのかもしれない。 私たちの持続した40年の運動が許さなかったのである。


戦前の建国祭

 日の丸の小旗をうちふって歩く 「日の丸行進」 は、 戦前昭和期の紀元節、 建国祭では見なれた風景であった。 紀元節に建国祭をかさねて全国民的イベントがはじまったのは1927からである。

 紀元節は、 新年、 天長節 (天皇誕生日、 昭和は4月29日) とともに三大節、 1927年に明治節 (明治天皇誕生日、 11月3日) を加えて四大節という祝祭日の一つで、 学校や陸海軍で祝賀式、 家庭では日の丸を掲げて祝うよう指示された日であった。 しかし多くの国民にとっては、 神武建国の日というより明治憲法発布の日であった。 大正デモクラシーの時代には、 「普選デー」 として労働者の集会やデモ行進が行われたり、 悪法反対運動が展開されたりした。

  「建国祭」 は、 学校や官庁の厳粛な儀式でしかなかった紀元節を、 労働運動にとって 「闘争の日」 であったこの日を、 「日本国の理想にもとづき、 高明なる国民精神を発揚するを以て目的」 とする 「全国民の年中行事」、 「家庭的祝日」 にかえてしまったのである。

 昭和に入った1926年の暮れに、 前東京市長永田秀次郎ら内務官僚が、 民間のイベントという形態をとって創始した。 この提唱者たちが、 自ら司会者となった東京の第1回建国祭の様子を簡単に紹介しよう。

 在郷軍人会、 青年団、 処女会、 修養団、 白衣の行者や学生たちが3会場に動員された。 芝公園では、 司会者前東京市長永田秀次郎が高らかに式辞を述べ、 海軍軍楽隊の君が代で両陛下と大日本帝国の万歳を三唱、 二重橋へ向けて日の丸を振り建国歌をうたいながら行進した。 靖国神社では司会者陸軍中将石光真臣により、 上野公園では司会者連合青年団理事丸山鶴吉により、 同じような式典後宮城へ向かって行進した。 3隊約3万人の行進は、 沿道の見物人の歓呼に応えながら二重橋前に集結、 宮中の祭祀を終えて帰る皇太子を大交響楽でむかえた。 空には九機の飛行機が奉賛ビラ20万枚を散布していた。 行進の後代表500人が明治神宮に参拝、 夜は 「建国の夕」 を開催し君が代と建国歌の斉唱、 国旗舞踊、 浪花節、 講演、 演劇などがあった。

 またこの日にむけラジオ放送が宣伝をくり返し、 三種の神器をかたどったバッジも発売され全国で20万個をこえる売れ行きだったという。 翌年は天皇の諒闇中としてイベントは自粛したが、 1928年には東京で会場を6カ所に倍増、 各地方では知事を責任者として本格的な全国民のイベントとして開催される。 戦時下ではいっそう盛大になり、 敗戦の1945年までつづいた。


建国祭反対運動

 最初の建国祭反対運動は1928年に行われている。 当時の 「無産者新聞」 は、 1面トップで 「この日は日本の労働者にとっては闘争の日だ」、 と運動への参加を呼びかけて、 「建国会 (註―主催者と思われていた) をタタキツブセ。 一切の選挙干渉に反対せよ!投票日公休、 賃金全額支給!失業手当法を制定せよ!耕作権を獲得せよ!帝国主義戦争反対だ!」、 という要求を掲げた。

 大阪ではこの日、 選挙干渉反対演説会を開催した (天王寺公会堂)。 しかしそれは 「『我等には言論集会結社の』 というや、 臨監は司会者まで検束し壇上人なし」、 という弾圧をうけ解散させられた。 この1カ月後に共産主義者を全国的に検挙する三・一五事件が起こり、 3年後に満州事変がはじまる。 それでも教育労働者を中心に建国祭反対運動は続けられていった。


歴史をつくる力

 戦前の建国祭反対運動は、 このような自由と平和を要求する運動であったが、 あの無謀な戦争を阻止することはできなかった。 しかし今、 私たちの運動は大きな発展した力をもっている。 全国民的な 「日の丸行進」 を許してはいないし、 戦争への道を拒み続けている。 九条の会事務局は、 2月1日現在で地域・分野別の 「九条の会」 が全国で6020に達した、 発足から月平均200の会が生まれたことになる、 と発表している。 一歩後退、 二歩前進、 これが歴史のあゆみ方ではないだろうか。 歴史はたしかに前に進んでいる。 (おがわ・まさのり 立命館大学非常勤講師、 大阪民衆史研究会副会長)


【大阪民主新報 2007年2月11日掲載】


著者 尾川 昌法(おがわ まさのり)

社団法人部落問題研究所理事長、大阪民衆史研究会会長、元立命館大学非常勤講師

※2020年時点での経歴

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「建国記念の日」反対大阪連絡会議

戦前、「紀元節」は、初代神武天皇即位の日とする天皇制国家の重要な祝祭日でした。  戦後、「紀元節」の復活をねらう政府は、1966年に「紀元節の日」であった2月11日を「建国記念の日」と制定しました。「建国記念の日」は主権在民を基本とする憲法の民主主義的原則に反し、歴史の真実を歪めるものです。