(論稿)大阪における「建国記念の日」反対運動の十年 小牧薫

大阪における「建国記念の日」反対運動の十年

小牧  薫


(一)はじめに

 「百科事典で紀元節をひいてみたら『神武天皇が天皇の位についたときだ』と書いてあった。でも、神武天皇とは、ほんとうはいなかったらしい。だから、建国記念の日が二月十一日だというのは、だれかがかってにつくった日だろう。これはおかしい」と小学生が言うほどに、「建国記念の日」は歴史事実を無視した、日本国憲法に反する国民の″祝日″です。「自由と平和を求めて、やまない日本国民」が「こぞって祝う」ことは断じてできないものです。

 私たちは、一九五一年三月、時の吉田茂首相が「独立後は当然紀元節は回復したいと考えている。国民の総意により盛りあがる力で紀元節を回復することが結構だ」と参議院で述べて以来、一貫して紀元節復活に反対してきました。そして、全国的にも、大阪でも歴史関係者がこの運動の先頭に立ってきました。一九六六年、旧紀元節を「建国記念の日」と装いを変えて復活して以来、廃止要求のさまざまの運動を展開してきました。私たちのこの運動がどのような歩みをしてきたか、また大阪の民主運動の中で、どのような役割を果してきたかについて、私見ではありますが、総括することを本稿の課題とします。

(二)廃止要求の論拠

 私たちが「建国記念の日」に反対し、その廃止を要求する論拠をみるためには、制定の経緯をふりかえることが必要かと思います。

 一九五一年の吉田発言以来、政府・自民党・右翼・神道関係者らは、ともに相携えながら紀元節復活のための策動・妄動をつづけてきました。一九五三年の池田・ロパートソン会談の直後、「建国記念日制定推進本部」(のちの紀元節奉祝会)か結成され、翌年の二月十一日より祝典を挙行するようになりました。その後、一九五七年、はじめて自民党が、祝日法改正案を提案し、以後、九回にわたって提案しつづけました。一九六五年以後は政府提案となり、六年六月、佐藤栄作首相の率先指揮により、衆院内閣委で強行審議され、強行採決直前、山口衆院議長あっせんで、”日づけ″を審議会にまわし、政令で公布するという調停案がきまり、六月二十五日可決成立しました。この際、衆院では、自民・社会・民社三党が賛成し、共産だけが反対、参院では、自民・民社が賛成し、社会・公明・二院タ・共産が反対するという野党の足並の乱れもありました。審議会は、菅原通済を会長に、憲法・歴史の専門家ぬき、明治生れの老人ばかりで構成され、まったく政府のいいなりで、審議らしい審議もせずに、「二月十一日」を決定し、こともあろうに十二月八日に答申しました。

 こうした「建国記念の日」の制定の動きに対して、私たちは次の点から反対の意志表示をし、運動をすすめました。

(1)史実と神話の混同。

  神武天皇は存在せず、二月十一日は日本の建国とまったく関わりがない点、また、二月十一日を建国記念の日とすることで、歴史の見方・考え方を誤まらせることとなる。

(2)紀元節は軍国主義と深くつ々がっていた。

  賛成論者は、明治以来少なくとも八十年間、国民なじみの深い日であるといいましたが、紀元節は帝国憲法下の天皇制のもっとも重要な記念日であり、国民には、戦争と抑圧のいまわしい記念日でしかありませんでした。

(3)信仰の自由を侵す。

  神道の記念日を国民の祝日とすることは思想・良心・信仰の自由を侵すものです。

(4)祝日法の精神に反する。

  戦前は皇室の祭典の行われる日が、いわゆる祭日であったが、現憲法下の祝日法は「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日」と明記しているが、この日は決して、国民こぞって祝い、記念することのできない日です。

(5)制定手続きは、国民主権の原理に違反するものです。

  第一に政府提出法案であり、国会が審議権を放棄し、立法事項であるのに、行政機関である内閣総理大臣の諮問機関に委任し不公正な世論を無視した審議によって決定されるという形式、内容ともに憲法違反のものです。

(6)軍国主義の一里塚としての「建国記念の日」の制定。

  さきに述べました制定経過と戦後日本史を合わせ考えてみると、国民の思想を政府や独占資本の思う戦争と侵略、抑圧の方向にひとまとめにしようとするものであることは明白です。

(三)反対運動の経過

 私たちは、全国の運動と連帯しつつ、民主勢力の力を結集しながら「建国記念の日」廃止要求の運動をつづけてきました。その運動形態は、集会、デモ行進、街宣、官公庁・学校で祝典行事をさせないためのアピール、「建国記念の日」を正しく教える運動など多様な形態をとってきました。

 集会だけをとってみても、次のような多様な内容を盛りこんだものとなっています。

 第一回、大阪府農林会館、八百人

 講演・黒田了一「憲法と建国記念日」

     遠山茂樹「紀元節は何をしてきたか」

 第二回、新朝日ビルホール、六百人

  講演・寿岳文章「『建国記念の日』におもう」

  特別報告・「大阪市立大学にたいする自民党の不当干渉問題」

 第三回、四天王寺会館、千三百人

  講演・日高六郎「『建国記念の日』と反動思想攻勢」

     細井友晋「靖国神社国営化法案について」

 第四回、中央公会堂、四百人

  講演・山口啓二「”七〇年代”の日本と『建国記念の日』」

  報告・歴教協’‘「万国博と教育」

     出版労協「児童雑誌の現状」

 第五回、大阪府教育会館、二百人

  主報告・池上淳「現代日本の政治経済構造分析-思想の反動化を批判する」

  特別報告・サ連協「中教審答申とこれからの教育」

       関文協「飛鳥と難波―文化財を守る運動の問題点-」

       民法協「国家権力と民主主義―司法の反動化をめぐって-」

 第六回、中小企業文化会館、、二百人

  講演・田口冨久治「軍国主義と現代」

  意見発表・マスコミ共闘、歴教協、大障連、母親、関文協、

 第七回、中小企業文化会館、二百人

  講演・梅根悟「軍国主義と現代の教育」

  意見発表・関文協、仏教徒、教科書地区連、能勢ナイキ反対連絡会議、マスコミ共闘

第八回、臨南寺会館、二百人

  講演・川口是「憲法とファシズム」

  報告・歴史学会「国家神道と伊勢遷宮」

     出版労協「言論の自由とマスコミ統制」

     大教組「戦争をどう教えたか」

     仏教徒「靖国神社国営化法案に反対する」

 第九回、大阪府教育会館、二百人

  講演・池田敬正「反動思想攻勢と民主主義の課題」

  分科会(報告と討論)・①教育と研究 ②マスコミと文化

             ③司法と人権 ④婦人と子ども

 第十回、中小企業文化会館、二百五十人

  映画・「軍旗はためく下に」を観賞

  意見発表・歴科協、自由法曹団、障連協、教科書地区連、関文協、統一協会被害者父母の会、マスコミ共闘、

 第十一回、桃山学院高、百三十人

  講演・上林貞次郎「戦時下、大阪の抵抗運動」

  意見発表・少年少女文化センター、歴教協、

 そして、この集会以外にも、歴史関係者研究討論集会、各衛星都市での反対集会、歴教協やサークル協、教科書裁判を支援する会の小集会などを開いてきました。

(四)反対運動の成果と弱点

 「建国記念の日」の廃止を要求する私たちの運動は、他のさまざまの民主運動・労働運動と呼応しながら大きく発展してきています。

 まず、第一に成果としてあげることは、「紀元節」の復活を許さなかったことです。二月十一日を「建国記念の日」として「国民の祝日」とは、残念ながらさせてしまいましたが、政府や独占資本が企図した戦前のような祭日にはさせていません。政府も官公庁もこの日に祝典行事を実施することは、未だできないでいることです。

 第二に、政府や独占資本が国民におしつけようとした天皇中心の歴史観・思想観をはねかえし、彼らが終着駅と考えている憲法改悪を実現不可能に追いこんでいます。「建国記念の日」制定以後、「明治百年祭」「天皇訪欧」「天皇訪米」「天皇在位五十年記念祝典」とさまざまな行事を組み、マスコミを使っての天皇キャンペーンは、度のすぎたものとなっています。しかし、これらの反動思想攻撃に対するたたかいの輪はその都度広がり、強靱なものとなっています。

 第三に、学校教育の場で、彼らの企図をはねかえしています。一九六八年、学習指導要領の改定に乗じて、神話と史実を混同させようとした文部省の企図を、歴史関係者をはじめ教育労働者、父母、国民のたたかいによってはねかえすことができたことと、科学的・民主的な歴史教育運動の発展の中で、「建国記念の日」を正しく教える運動も発展しています。

 第四に、この運動は全国的にも歴史関係者を核にしながら、統一を重視してすすめられてきたことです。私たち大阪の歴史関係者は、制定段階から、教科書裁判支援運動の経験に学びながら、統一して集会を開くことに努めてきました。第一回、第二回は二つの集会が開かれるという事態になりましたが、第三回は統一集会実行委員会がもたれ、以後は、歴史三団体が共催し、他の労組、民主団体の協賛という形をとり、六回目以後は、「建国記念の日」反対大阪連絡会議を結成し、運動の母体としてきました。

 第五に、過去十一回の集会で、大阪の思想、文化、教育、司法、文化財保護、子どもの文化、マスコミ、婦人運動など、幅広い運動の経験交流がなされたことです。

 さいごに、直接この運動の成果ではありませんが、「建国記念の日」制定直後の総選挙(六七年一月)で、自民党の得票率を五〇パーセント未満に落ちこませ、十年後の昨年末の総選挙では、自民党を議席数においても半数以下においこみました。そして、この十年間に、東京、大阪をはじめ全国二百数十の地方自治体の首長を革新にかえてきました。奈良県橿原市の紀元節市長も、革新統一市長に変えることができました。このことが、形にあらわれたもっとも大きな成果だと思います。

 いっぼう、弱点もいくつかかかえています。第一に、「紀元節」復活が企図された段階でもっとも、敏感に反応したのが、歴史関係者であったのですが、 そのことが現在も尾を引いて、紀元節問題は、歴史関係が動き出さないと運動が組織できないということです。

 第二に、制定段階での反対勢力の足並の乱れです。社会党が、二月十一日の代案を五月三日として出すということがありました。つまり、私たちの側に、現代日本の建国を記念する日があるのか、ないのかという意志統一が不充分だったことです。

 第三に、「建国記念の日」廃止の運動が、思想運動であり、政治的自覚の上に立った運動であることに起因することですが、運動に加わるひとりひとりの自発性・自主性に依拠したものであるため、どれだけ多くの団体を結集できても、現実の集会や反対行動の参加者は量的に決して増えていないということです。

(五)まとめにかえて

 建国をどう意義づけるかということは、国民の政治意識に密接な関連をもつことです。それを国家権力が規制し、押しつけることは、思想統制というだけでなく、憲法で保障された良心・思想の自由を侵害することにほかなりません。戦前的天皇制やファシズムを断じて許さず、民主主義を守り発展させるうえで、この運動のもつ意義は大きいと思います。 戦前の「治安維持法」を肯定する暴論が唱えられ、反民主主義・反共の思想攻撃が強まる中で、この運動もますます発展させねばなりません。そのために、私たち歴史関係者の果すべき役割はたいへん大きいものだと思います。

 国民の中に、「祝日」でなく「休日」だとする考えが広まっていることも事実です。私たちは、その反動的本質をみすごすことなく、私たちの政治的意識をとぎすまし、全国民が「こぞって祝う」ことのできる”建国の日”を近い将来にもつことのできるようにいっそう努力したいと思います。

(大阪歴史科学協議会機関誌『歴史科学』第68号1977.6.10所収)


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「建国記念の日」反対大阪連絡会議

戦前、「紀元節」は、初代神武天皇即位の日とする天皇制国家の重要な祝祭日でした。  戦後、「紀元節」の復活をねらう政府は、1966年に「紀元節の日」であった2月11日を「建国記念の日」と制定しました。「建国記念の日」は主権在民を基本とする憲法の民主主義的原則に反し、歴史の真実を歪めるものです。